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よもやまコラムYOMOYAMA COLUMN

航空・科学技術

ローラン・ギャロスは飛行機乗り(後編):テニス全仏オープンの会場の名前

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「ローラン・ギャロスは飛行機乗り:テニス全仏オープンの会場の名前」の続きです。

空軍のエース・パイロットに

世界初の地中海横断に成功した翌年の1914年の夏、第一次世界大戦が始まりました。海外県で生まれたローランには若者に課される兵役はなかったのですが、ローランはすぐに一般の兵隊として空軍に入隊します。そこでは偵察、戦闘、爆撃など様々なミッションを行ったそうです。

なかでもその頃のエピソードとして多く取り挙げられているのがプロペラ同調機関銃システムです。簡単にいえばプロペラがあっても飛行機の前方に設置した機関銃で射撃できるというものです。レイモン・ソルニエが設計し、ローランが実際に使って試してこのシステムを完成させました。それからローランの戦闘での躍進が続き、ローランはエース・パイロットとなります。

このレイモン・ソルニエとは1909年にルイ・ブレリオが世界初のドーバー海峡横断飛行を成功した際に用いたブレリオ11号を設計した人で、モラーヌ兄弟と共にモラーヌ・ソルニエ航空機社を設立しました。多くのモラーヌ・ソルニエ機(MS機シリーズ)を開発・製造・販売した会社の人です。

フラスペ ・よもやまコラム 「超緊張のドーバー海峡初横断:ルイ・ブレリオ」https://www.france-space.com/column/air/louis.html、「兄弟チームがあちこちに:航空黎明期(3)モラーヌ兄弟、コードロン兄弟、ファルマン兄弟」https://www.france-space.com/column/air/3.html 参照


捕虜、脱走、戦線復帰

ところが1915年4月、ローランの機体はドイツ軍の弾を受け着陸せざるを得なくなり、そこでローランはドイツ軍に捕まってしまいます。ローランが26歳の時です。

ドイツ軍はローランの搭乗機に搭載されていたプロペラ同調機関銃システムをコピーしようとドイツの飛行機製作事業者フォッカーのチームに調べさせます。しかしフォッカーらは完コピすることはなく、それより自分らのシステムを考案します。結局ドイツ軍はフォッカーら自身が開発したものをフォッカー機に搭載することになったそうです。

そして約3年後の1918年2月、ローランは捕虜収容所からの脱走に成功します。ドイツ軍の将校の姿に変装して警備をかいくぐったそうです。

帰還したローランに対し、閣僚長(いまで言えば首相)のクレマンソーはフランス軍参謀本部の顧問のポストを提案します。しかしローランはそれを断り、再び空軍のパイロットの任務に戻ります。配属先は「コウノトリ飛行隊」と呼ばれた隊でした。「コウノトリ」・・・強いのか弱いのかイメージしにくい名前です。


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最期の時とオマージュ

25歳で空軍に入り、26歳半ばから29歳半ばまでドイツ軍の捕虜となり、ようやく帰還できた1918年ですが、この年の10月5日、ローランは空中戦の最中にドイツのフォッカー機の攻撃を受けます。機体は空中で爆発し、そしてローランは帰らぬ人となりました。

この記事の最初の方を思い出してください。ローランの誕生日は1888年10月6日でした。つまり、命を落としたのはまさに30歳になる1日前でした。明日はお誕生日だったのに。さらに第一次世界大戦の休戦協定が締結されたのは11月11日です。あと1ヵ月ちょっとだったのに。

こうしてローランは30年に満たない人生を駆け抜けて生涯を終えます。そして1927年、ローランのHEC時代の学友エミール・ルシュールは、テニスのデニスカップのための新スタジアムの名前にローランの業績を讃えて「ローラン・ギャロス・スタジアム」とするよう提言します。エミール・ルシュールはラグビー選手としても活躍し、スポーツ振興団体のスタッド・フランセ協会の会長にも就任した人です。

エミールの提言は受け入れられ、そして飛行機乗りのローラン・ギャロスの名前がテニスの全仏オープンが行われる会場の名前になりました。

文:浜田ポレ 志津子(フラスペ)

No:Y20200917-01