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解説・特集COMMENTARY / FEATURE

アリアン・ロケット開発物語

アリアン・ロケット開発物語(9):ベルギーの当時の様子と英仏提案プロジェクトへの参加決定

P20200820 Ariane1.jpg前回は、自国のブルーストリークを用いて欧州でロケットを作ろうというイギリスの提案について、フランスがシャルル・ド=ゴール大統領の意向に従い参加を決め、英仏両国でその他の欧州の国を誘う形になった話でした。

「アリアン・ロケット開発物語」と題しておきながら、まだまだアリアンの名前も出てきていないですね。記事が遅々として進まず申し訳ないですが、今いるところはアリアン・ロケットプロジェクトより前の、欧州初の協力ロケット事業体である欧州ロケット開発機構(ELDO:読みエルド)が組織されていく場面です。

イギリス、フランスに次いで欧州初のロケット事業体ELDOに多く出資して参加したドイツの話の前に、ベルギーについて触れておきたいと思います。小さな国ですが「欧州で協力して事業を進める」という意欲を強く持ち、のちのアリアンロケット・プログラムの決議の際にも重要な役割を果たします。

当時ベルギーにおいても宇宙の科学研究分野では積極的に様々な取り組みが行われていました。ベルギー人のマルセル・ニコレ(Marcel Nicolet)がIGY国際地球観測年(1957年7月〜1958年12月)の事務総長を務めていたため、ブリュッセル近郊のユックル(Uccle)では多くの会議が開かれ、まるでIGYの本部のようだったと書かれています。

ベルギー王立天文台や王立気象研究院のあるユックルはユックル・スペース・ポールと名がつけられ、天文学、気象学の研究の他にも、衛星データ受信処理などでベルギーの宇宙活動の1つの拠点となっている町です。

P20201122 Uccle.jpg

1960年代初頭、ベルギーは欧州宇宙研究機構(ESRO)をはじめ宇宙科学研究に関する欧州協力にはすべて参加する方針で、政府、科学界の中にも「それらには欧州原子核研究機構(CERN)に行った予算的貢献よりも多くつぎ込んでもよい」という意見もありました。この文ではそれが拠出割合のことか実費総額なのかは明確ではありませんが、とにかくベルギーが宇宙科学研究の分野の協力に大変意欲的であったことがわかります。

しかし、イギリスのブルー・ストリークを用いた欧州ロケット共同開発の提案には、宇宙科学研究分野の欧州協力ほど簡単に皆の合意を得ることはできませんでした。プロジェクトの検討を行ったCNPS国家科学政策委員会は賛成としながらも、話は国家レベルの問題として判断を政府にゆだね、その政府では費用の大きさが問題視されます。実際ESRO加盟は拠出金額も少なくて済み閣僚間レベルの調整を必要としなかったのですが、輸送系のこの欧州プロジェクトはその範囲ではありませんでした。

それでもベルギーは、1961年のストラスブール会議でなされた英仏間の合意署名の後、参加の再検討をし、結局ELDO加盟を決定します。どんな意思が働いたのでしょうか。

これは、「ELDOの欧州ロケットプログラムに協力するのは、これが、欧州が独立した宇宙輸送手段を得る第一歩である」という強い考えからのものだと見られています。「第一歩」という表現が興味深い点です。「ELDOのロケットが失敗しても、欧州のロケットを得るまではひかない」とまでは具体的に想像していなかったと思われますが、実際、約10年後にそれが現実となった時、ベルギーは撤退せず、ELDOのヨーロッパ・ロケットの代替案として出されたアリアンロケット・プロジェクトを強く推すことになります。

ここにベルギーの欧州主義をよく見てとることができます。「ベルギーのような小さな国は、国内に技術・産業を発達させるだけの資力も市場もない。航空宇宙、核エネルギーのようなハイテク分野に関してはなおさら資力、市場が必要だ。そのため欧州地域という枠を利用し、欧州内で協力して技術・産業の発展を目指す」という考えです。

こうしてベルギーはELDOへの参加を決定し、ACEC(シャルルロワ電子製造工場社)、アントワープのBTMC(ベル電話製造会社)、ブリュッセルを拠点とするMBLE(ランプ・電子機器ベルギー製造会社)ら産業界の検討・提案をもとに、ELDOの誘導ステーションを担当することになります。

ここまで、イギリス、フランス、ベルギーのELDOへの参加の道を紹介してきました。次回は残りの国々、主にドイツ、イタリアの様子を述べながら進めて行きたいと思います。

次回へつづく

文:浜田ポレ 志津子(フラスペ)

No:Y20201123-01