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解説・特集COMMENTARY / FEATURE

アリアン・ロケット開発物語

アリアン・ロケット開発物語(4)- 英首相マクシミリアンの思惑(1950年代後半〜60年代初頭の様子)

P20200820 Ariane1.jpg前回は、イギリスが開発し製造もしたブルー・ストリークが余っている状態の話まで書きました。今回はその続きです。

イギリス政府はこの運用中止となって余ったブルー・ストリークをどう処分したものかと考えます。ここでイギリスに欧州共同のロケット開発計画が浮上します。一国の財源では実現できないけれども、ブルー・ストリークとその他イギリスが持っている宇宙インフラを提供して、欧州プロジェクト化しようというアイデアでした。

このアイデアについて考察した文献では、イギリスで書かれたものは「当時のハロルド・マクミラン首相は、ブルーストリークを使ってロケットの欧州化プロジェクトをやれば、ブルー・ストリークの中止によって失った政治的信頼感の回復を狙うことができると考えた。さらにこの機に乗じて欧州経済共同体(EEC)への参加の足がかりもできると考えた」と書いています。

フランスで書かれたものでは「イギリス政府はブルー・ストリークに投資した金額は無駄でなかったことを示したかった。また当時希望していた欧州経済共同体(EEC)への参加のために、おおいに欧州各国との協力する意思があることをアピールたかった」というものがあります。

つまりイギリス側でも、フランス側でも同じことを言っていますので、この考察は偏った見方の評価ではないと言えるでしょう。そして、当時のフランスの宇宙分野の重鎮であったロベール・オービニエール将軍の回顧インタビューでも「シャルル・ド・ゴールも、この件はほんとうにイギリスの国内の事情に起因していたとみていた」と話しています。

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ここまでのまとめ

宇宙科学分野では欧州協力の機運が高まり、それをまとめていこうとする組織も作られてきました。けれど宇宙ロケット分野は協力内容の対象には含まれていませんでした。

初めて「欧州数ヵ国が協力してロケットを開発しよう」という計画は、まだそれぞれの国がロケット開発についての欧州内の協力についてどう対処していけばよいのか明確な意向が確立していない時期に、イギリスという1つの国が自国の事情に対処するために試みた施策が引き金となって動き始めた、といえます。宇宙ロケット、宇宙輸送系についての「欧州内での協力」という概念、あるいは心構えは、どの国でも未熟でした。

この後、イギリスはこの「ブルー・ストリークを用いた欧州の共同ロケット開発」のアイデアをまずフランスに持ちかけます。そしてその後、他の国にも積極的に提案して回るのですが、その時の各国の対応については、これからの記事の中で記したいと思います。

ちなみに、その後イギリスの国としての衛星打上げ用ロケットの開発はブラック・アロウへと移っていくことになりました。そのブラック・アロウは1971年にウーメラから打ち上げられイギリス初の人工衛星プロスペロの軌道投入に成功することになります。

最後に追記しておきたいのは、1950年代後半からの各国の政府の宇宙関係の体制作りです。軍を中心に宇宙技術の研究開発が進められている一方、科学分野での動きも活発になってきました。そして気象、通信等実用分野でも宇宙利用の需要の兆しが見えてきます。そんな中、国内で宇宙分野を総合的に取りしきる必要性がでてきました。また対外的にも窓口、或いは折衝担当となる組織・機関の存在が望まれました。

このためそれぞれの国の中に宇宙専門の組織が作られてきます。名前は委員会であったり、研究所であったりしますし、組織自体も形や名前が変化していったりもします。科学分野をとりまとめようという意図に由来するものも含まれますが、仏国立宇宙研究センター(CNES)、イタリア宇宙研究委員会(CRS)、イタリア国家研究委員会(CNR)、ベルギー国家科学政策委員会(CNPS)などがそれらの例に挙げられます。

この動きは日本でも同じです。1960年と言えばちょうど日本宇宙開発審議会が発足された年にあたります。

次回へつづく

文:浜田ポレ 志津子(フラスペ)

No:D2000823-01